2009年12月30日

寺町三丁目十一番地

太田大八画、福音館書店、1969年、現在は品切れ重版中止

厚生大臣賞、サンケイ児童出版文化賞受賞作
大阪児童文学館「日本の子どもの本100選、1945-1978」の一冊


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寺町三町目十一番地』の物語

『寺町三町目十一番地』は昭和10年代、静岡で写真屋を営む福っつぁんとその家族の物語だ。福っつぁんには子どもが12人いる。物語は12章からなるが、4月の新学期から始まり、最後の1月に起きた静岡の大火の場面まで、この大家族の一年間を描きながら進む。主人公は、三男の仁少年である。仁は小学6年生、勉強がよくでき、級長を務め、弟妹思いの優しい少年だ。しかし、仁は体格が貧弱で、やや気の弱いところもある。12人兄弟は、住み込みのお手伝いのおたけさん、書生の曽田さんとも同じ釜の飯を食べて暮らす。父親の福っつぁんは、古き良き頑固親父だが、大変子煩悩でもある。

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 これほどの大家族になると、食事をするのも、風呂に入るのも、便所に入るのも大騒動であり、常に競争である。海水浴に行くにも、早起きして弁当に50個もおむすびを作るとか、学校に持って行く弁当のおかずの卵焼きを、夜中に盗み食いする奴がいるとか。いろいろな事件も起きる。盗みに入った泥棒が、大家族が寝ているのをみて腰を抜かしたり、福っつぁんの旧友の子どもを三人も預かることになったりとか、こうした出来事や事件を主軸に物語は進行する。
 また、お祭り、ちんちん電車、ふんどし、焼き芋のおやつ、商家の暮らし、昔の学校の様子など、戦前の城下町の風景も太田大八画伯の挿絵の力も借りて、ふんだんに盛り込まれている。


『寺町三町目十一番地』のモデル

 小学校時代、私は父茂男に、この本について尋ねたことがある。「このお話、本当にあったことなの?」茂男は、「大概は本当にあったことを元に書いているけど、全部が全部そのままじゃない。仁だって自分がモデルだけど、自分のことをそのまま書いた訳じゃない」と答えていた。
 実際茂男には12人兄弟がいたが、茂男の実母は茂男が4才のときに亡くなっているので、茂男のすぐ下の妹(物語の中では、きく)より下は腹違いの弟妹である。継母の連れ子という兄弟もいる。だから『寺町』に登場する母親のおしげさんは仁には継母のはずだが、それは物語に反映されていなく、茂男も「そんな複雑なことは書けないよ」と語っていた。しかし、登場人物は、茂男の実際の兄弟たちにみなそっくりで、本人たちを知る人ならば、誰がどの登場人物か、たちどころに言い当てられるだろう。そればかりでなく、家族以外の登場人物とか、寺町商店街の店や寺院などは、実在したものをかなり忠実に描いている。
 茂男はしばし出身校である静岡市立城内東小学校の同窓会に出席していたが、その席には、本書に登場する「下駄やのたか坊」とか「和菓子屋の良男」とか「パン屋の竹ちゃん」とかが集まっていたらしい。そういった茂男の小学校同級生たちは、「チャンバラで、坂本龍馬になったのは、おれずら」とか、「武にビー玉を売りつけられたのはおめえだ」とか勝手に決めつけて、同窓会の座は多いに盛り上がったと茂男はいっていた。
 この作品の愛読者は静岡出身者だけでなく、昭和初期生まれで、戦前、戦中に子ども時代を送った人の中にも多いようだ。そういた世代の親に育てられて、子ども時代にこの本を読んだ1960年代生まれの読者もたくさんいる。  
 例えば、茂男が亡くなった後の2007年2月に行われた渡辺茂男のための「お別れの会」でも、会の発起人の一人であった児童文学者の猪熊葉子氏はそのスピーチの中で、「寺町三丁目十一番地は、茂男氏を知る前から読んでおり、日本の児童文学の中では大好きな一冊です」と語っていた。茂男の長男である私も、講演会で父のことを話した折などは、「『寺町三丁目十一番地』を手に入れる方法はないでしょうか?」と尋ねられることがある。しかし、『寺町』はもう書店では売ってなく、私の手元にももうストックがないので、思うように差し上げることもできず、心苦しく思う。

失われた時代、二度焼けた写真屋

 この物語は、失われた時代の物語である。その理由のひとつは、茂男が、父親祐蔵が1965年に亡くなったすぐ後に『寺町』を書き始めたことにある。現に、扉の献辞にも「父に捧ぐ」とある。もう一つには、茂男の実家の写真館が火事で焼けて、古い写真や家族の記念となるものは何も残っていないことがある。物語の最後に盛り込まれているが、一回目は1940年の静岡市の大火で焼け、そして、終戦の1945年にも空襲で再度写真館は焼けている。この家が写真屋だったのに、皮肉にも古い頃の写真は何も残っていない。
 この物語を茂男が書こうと思った動機には、自分の父親と実家の歴史が何も残っていなかったことがあっただろう。

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『寺町三町目十一番地』の文学的価値

 昭和初期の風物や火事で焼けてしまった写真屋を描いているこの作品は、確かにノスタルジックである。しかし、この作品の価値は決して、ノスタルジーやセンチメンタリズムだけではないと、本書が1976年に講談社文庫として出版されたときの「あとがき」に瀬田貞二が書いている。
 瀬田氏は、この作品の文学的価値は、欧米の児童小説に見られるような主人公仁少年の成長ロマンであること、さわやかさがあり、ユーモアにあふれていることだとも書いている。こういう調子の作品は、それまでの日本児童文学にはあまり見られなかったことだと言う。瀬田氏は、茂男がこうした作品を書き得たのは、エステスの『元気なモファットきょうだい』(渡辺茂男訳、岩波書店)、やガーネットの『ふくろ小路一番地』(石井桃子訳、岩波書店)などに精通し、欧米の児童文学の手法を自作に生かすことができたからだと言う。瀬田氏は、さらに、茂男の『寺町』のストーリーテリングが軽快であること、リズムやテンポが良く、描写も簡潔で、どんどん読み進むことができることも挙げている。
 時代性、この時代の風物の細かい描写、少年の成長物語、父親像、少年群像、暖かなユーモア、物語としての面白さなどが総合されて、『寺町』は読むのに愉快な物語となっている。

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 私個人も、小学生時代にはこの本が愛読書であった。私には、12人ものおじさんやおばさんがいて、従兄弟も30名以上いた。その中には親しく行き来していた家族もあったが、まるで他人という人もあった。祖父は私が3才のときに亡くなったので、祖父のことは私はほとんど知らずに終わった。だから、「福っつぁん」こそが私の祖父であり、この本は私にも大変貴重な本なのである。
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2009年12月14日

フルブライト留学と茂男の著作

茂男の作品を読む観点については、「父親の視点」、「内なる子ども」、「児童図書館員としての見識」、「心に緑の種をうえる」という計4つの観点を前稿に挙げた。

ここにさらにもうひとつの見方を加えるならば、渡辺茂男が1950年代にアメリカ留学した多くのフルブライト留学生の一人であったことがあるかもしれない。フルブライト留学は、戦後の米国の留学制度で、敗戦国である日本やドイツに、親米的な、アメリカの文化や社会に詳しい学者や官僚を育成する機能を担った。茂男は、その典型的な産物と言えるし、子どもの本を通じて、アメリカ人の姿を日本に伝えるパイプ役となった。このことは茂男の著作を理解する上での重要な観点ではないかもしれない。ただ、茂男がアメリカの本をたくさん紹介した理由は、純粋に彼の文学的志向の問題だけでなく、実は大きな歴史の一こまであり、必然だったと捉えることもできる。茂男が自分の意志でアメリカに渡ったことは間違いないが、日本が敗戦し、そのお陰で実施されたアメリカ留学制度がなかったら、茂男がアメリアの子どもの本や民話に精通することもなかっただろう。 

日本へアメリカの古典の子どもの本がたくさん輸入されたのは茂男が留学した1950年代中期以降のことだろう。茂男世代の作家や翻訳家たち、その後輩らは大量の翻訳を行った。茂男の先輩である石井桃子もアメリカに招聘されて長期滞在しているし、松岡享子、まさきるりこら、著名な子どもの本の翻訳家たちにも茂男と似た留学経験を持つ人たちがいる。日本でアメリカの子どもの本がたくさん読まれるようになったのは、フルブライト奨学金をはじめとする留学制度のおかげだけではないだろうが、その功績は無視できない。

茂男は、アメリカの文化と、それを伝えるアメリカ人というものに最初は静岡にあった米軍CIE(民間情報教育局)図書館で出会った。この時期に、各地のCIEでアメリカの文化に出会った作家や芸術家はたくさんいるだろう。茂男はCIE図書館で働いたことがきっかけで、慶応義塾で図書館学を専攻することになり、そこからアメリカに留学した。茂男は、留学中著名な図書館員、批評家たち、作家や編集者からも学んだ。その結果、茂男は、アメリカの図書館で読まれていた1920年代以降一連の「黄金時代の子どもの本」をそっくり日本に持ってこようとしたようなところがある。
 
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そういう茂男は、Dr.スースに見られるようなアメリカ的ユーモアをこよなく愛し、マックロスキー作品の中の、おおらかであるが絆の固いプロテスタント的家族愛に憧れ、西部開拓的フロンティア物語(『エルマーのぼうけん』、『ウイスコンシン物語』『オズの魔法使い』など)に心を揺さぶられた。インディアンや黒人の間に伝わる民話や伝承もむさぼり読んで、紹介した。
 
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子どもの本の分野に限らず、茂男の同世代のフルブライト留学生が日本にもたらしたアメリカの文化、それに関する情報は膨大なものになるだろう。そういう意味では、茂男たちアメリカ留学組の子どもの本作家や翻訳家も、一種の開拓者であったに違いない。
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2009年12月09日

渡辺茂男の著作を読む、いくつかの観点

渡辺茂男の書いた子どもの本、訳した外国のこどもの本

渡辺茂男の著作は、1959年出版の『アメリカ童話集』(あかね書房)から2006年出版の翻訳絵本『さとうねずみのケーキ』(ジーン・ジオン作、マーガレット・グレアム画、アリス館)に渡っている。
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48年間、翻訳に始まり、翻訳に終わっている。しかし、その間には、翻訳と同じ比重で、創作の子どもの本も書いている。渡辺茂男がユニークなのは、欧米の古典的な作品を翻訳紹介したのみならず、創作も多数書いていることかもしれない。茂男の先輩や同世代の子どもの本の翻訳家では、茂男ほどたくさんの創作をした人はあまりないようだし、逆に、創作で有名な絵本や児童文学作家で、茂男くらい翻訳をたくさん出している人もそういない。
 だからと言って、渡辺茂男が他の子どもの本の作家や翻訳家から抜きん出ていたということは全くない。ただ、彼が創作と翻訳の両刀使いであり、どちらも片手間にやっていたのではないことは特筆すべきことかもしれない。

茂男著作を読むための三つの観点: 「内なる子ども」、「父親としての視点」、「児童図書館員としての経験と知識」

茂男の著作は三つの観点から見ることができると、子どもの本翻訳家として活躍中の福本友美子さんは書いている(詳しくは、『2007年版この絵本が好き:別冊太陽』平凡社、を参照)。福本さんは、茂男の慶応時代の教え子であり、茂男の著作も人間も熟知している方である。

その三つの観点の一つは、「自分の内なる子ども」であると言う。小さくて、ひ弱だった茂男の子ども時代を反映させて書いた『しょうぼうじどうしゃ じぷた』が、ひとつの例である。「ちびっこでも すごく せいのうが いいんだぞ」というこの本の最後の一文は、茂男の自分への励ましかもしれない。茂男は、著作のときは、自分の中に生きている「子ども」が話しかけてくるのを待って文章を書いた、と語っていた。
 二つ目の観点は、「父親の視点」だと言う。茂男は、若き日に読んだエッツの『もりのなか』に描かれている愛情深い父親に深く感銘を受けている。その自分も三人の息子を育て、彼らの成長を間近で見ながらそれを作品の中に描きこんだ。例えば、「くまくん/くまたくん」シリーズがその例である。他にも、父親の視点から書いた作品は数多あるし、父親が活躍する翻訳作品も多数手がけている。
 そして、三つ目の観点は「英米のこどもの本に関する知識と、児童図書館員としての経験」であると言う。茂男は米国留学中、ニューヨークの公共図書館で児童図書館員としての仕事をしたが、この時にアメリカの子どもたちと読んだ数多くの本を日本に紹介した。『どろんこハリー』、『エルマーのぼうけん』、『かもさんおとおり』などである。茂男は図書館の現場を離れても、図書館員としての意識は、持ち続けていたと思う。
 茂男は、絵本をたくさん書いたり、訳したりしたが、その他にも長編の児童文学、各国の民話、昔話、評論や書評や紹介の著書も積極的に手がけた。
 福本さんの挙げたような観点から茂男の著作を振り返ってみることは、その著作の幅が多岐にわたっているだけに意義のあることだ。

「心に緑の種をまく」という観点
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 上記の福本さんが挙げた三つの観点にもうひとつ鳥瞰的な観点を加えるならば、「心に緑の種をまく」という茂男の姿勢があるだろう。これは、『心に緑の種をまく』(新潮文庫)という茂男の同名の本の随所に書かれている内容である。茂男は、戦争から復興して急速な経済発展の中、豊かになっていく日本で、逆に貧しくなっていく子どもたちの心を危惧した。仕事が忙しくて子育てに参加出来ない父親のこと、親子が本を一緒に読む機会が減っている生活のこと、テレビや漫画、コンピュータゲームなどのメディアが読書機会を奪うことなどを心配した。茂男は、「語りつがれてきた昔話や、読みつがれてきた子どもの本のなかには、人間の知恵が豊かにこめられています。それが、おかあさんやおとうさんの声で語られ読まれるとき、子どもの心の発達にどんなにすばらしい刺激になるでしょうか」(同書44ページ)と書き、その国の文化レベルが、大衆メディアと同じレベルに落ちることを恐れた。
 晩年の茂男は、子どもに物語を語り、良書の読書機会を与えることは、すなわち「心に緑の種をまく」ことであると唱え、セミナーなどで語って歩いた。これは、自然資源の枯渇が心配され、読書の大半がデジタルメディアに取って代わられ、持続性のある経済や社会への変革が叫ばれる今日でも、子どもの本に関わる人間にとっては大切な観点であろう。事実、「心に緑の種をまく」というメッセージは、茂男の没後も、茂男の故郷である静岡市、北海道帯広、長野県東筑摩郡麻績村、茂男が暮らした東京多摩などの公共図書館で、読書推進運動や茂男の著作展示の際に、そのままスローガンとして用いられてきた。茂男は、子どもと本を一緒に読んでいくことで、本当に緑の故郷がよみがえると信じていたに違いない。

今後、この項には、渡辺茂男の著作について、順次解説を試みていきたいと思う。
posted by てったくん at 09:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作について