2010年02月05日

『寺町三町目十一番地』のその後

『寺町三丁目十一番地』は、1969年に福音館書店から出版され、2000年代初頭まで販売されていたが、現在は「品切れ、増刷停止」だ。この本を愛読したものには残念なことである。
 茂男自身、晩年には『寺町三丁目十一番地』の続編を書きたいと考えていた。書くことはたくさんあった。この大家族の「その後」だが(これはノンフィクション)、静岡の大火で写真館が焼けた後、市内の幼稚園の職直室に難民のように2年間も間借りしていた。その後、1943年、茂男が15才のとき写真屋は再建されたが、またすぐに第二次大戦の空襲で焼けてしまったことはもう書いた。

okyou.jpg
寺町三丁目十一番地から。太田大八画

 茂男は、金銭的余裕もなく、中学受験はできずに静岡商業学校(現在、静岡商業高校 www.seisho.ed.jp)に入り、戦争中は勤労奉仕でアルミ工場で働かされた。兄二人は海軍と陸軍に招集され、戦後生還した。
 茂男は勉強が続けたく、どうにか東京の久我山工業専門学校に入り、その寮で終戦を迎えた。卒業しても仕事はなく、やむなく清水のお土産屋でGI相手の店員をした。やがて静岡占領軍の文化センター(CIE)図書館でアルバイトをしたところから、慶応義塾大学図書館学科に推薦入学できることになり、卒業後はアメリカ留学することになる。
 それが茂男(=仁)の少年期から青年期への履歴だ。戦後、静岡市西草深に再建された写真屋「菊池写場」は、祖父が亡くなった後は茂男の兄や弟たちが継いだ。終戦直後の菊池写場は、静岡に駐留した占領軍GIの写真を撮る仕事で繁盛した。
 2006年に亡くなった茂男の残した原稿の中に「写真屋のガキ」というファイルがある。これが『寺町』の続編の草稿である。茂男は、1989年、静岡新聞に20回に渡って「我が青春」というエッセイを連載し、ここにも生い立ちを詳しく書いた。これらを素材に、晩年の茂男は「続編」を書こうとしていた。しかし、妻の一江が1991年に急逝し、そのせいで思いのほか早く訪れた自分の老後と向き合って四苦八苦しているうちに、茂男は『寺町』の続編を書く時機を逸してしまった。

seishunn.jpg
静岡新聞連載「わが青春」
 
読み継がれる『寺町三丁目十一番地』

私事であるが、筆者が父茂男のことを講演会などで話題にすると、時折『寺町三丁目十一番地』に親しんだという読者に、懐かしげに話しかけられる。また、この本は、メルボルンの我が家でも読まれ続けている。私は、オーストラリア育ちの娘の鼓子(茂男の初孫)が小学生のとき、『寺町三丁目十一番地』を読んでやった。オーストラリア育ちの娘に、果たしてどれほど理解されるか疑問だったが、「すごく面白かった」というのが鼓子の感想だった。
 その鼓子は、茂男の亡くなる少し前に日本に帰省したとき、私と二人で茂男の故郷静岡市を訪れ、鼓子は、このとき初めて茂男の兄弟姉妹に会っている。その時は、まだ元気であった父の妹の菊代(物語の中では「きく」)に、鼓子はまるで孫のようにかわいがってもらった。鼓子は、菊代に会うなり、「菊代おばちゃん、寺町三丁目のお話みたいに、本当に昔、海水浴に行って、おにぎりの山に尻餅ついたの?」と、質問した。確かにそんな場面が『寺町』にはある。ただ、山盛りおにぎりに尻餅をついたのは、「きく」でなく「たか」(モデルは、茂男の末妹の孝子)であるのだが。 
 しかし、そんな細かいことは関係なく、老いて記憶もやや薄れかけてきた菊代は目を細め、「ああ、尻餅ついたっけよ、ついたっけよ!」と、うれしそうに答えた。そんなことで、鼓子と菊代は一目でお互いに親密さを感じたようだった。鼓子も「菊代おばちゃんには、初めて会った気がしないなあ!」と言っていた。
 物語は、時空を超えて、読者同士を結びつける不思議な力を持っている。現に、『寺町三丁目十一番地』という物語は、菊代と、オーストラリア育ちの私の娘を、たちどころに強い絆で結びつけたのだから。

大家族のすばらしさ

12人兄弟の中で育った茂男は、兄や姉が、親代わりになって、弟や妹の世話をすることが大切だと信じていた。茂男の父親も母親も、仕事や家事でいつもきりきり舞いしてただろうから、『寺町』の随所にもあるよう、兄弟が面倒を見合うのは、しごく当然なことであった。筆者は、茂男の長男だが、弟の面倒をみずに放ったらかしておいて、よく茂男に叱られたものだ。
ΒjZ69.jpg
茂男の兄弟 1967年頃(茂男、後列右から5番目)

 昨夏(2009年1月から2月)、筆者の暮らすオーストラリア、メルボルンを、空前の大火(ブッシュファイヤー)が襲った。私のメルボルン近郊の家もあわや焼けそうになり、静岡大火と空襲で2度も焼け出された茂男の火事体験を私も少しばかりは理解することができた。幸運にも私は被害を免れたが、このメルボルンの火事では200名が亡くなり、7000軒もの家が焼かれ、罹災家族の多くは今も仮設住宅に住む。
 そうした罹災者の中に、11人も子どもがある大家族がいることを、あるとき新聞記事で知った。「寺町と同じじゃないか!」私は、びっくりした。その記事には、この家族が焼け跡に戻って、黒こげの家を見ている写真があった。そして、この大家族は、まるでピクニックにでも出かけたように楽しげに焼け跡を探索しているのだった。
 「あ、ここが私の部屋だった場所だ」、「私のおもちゃが焼け残っている!」などと、兄弟姉妹たちは、喜々として焼け跡を見て回わったという。この大家族は、火事で焼かれて無一文になっても、全員けがひとつしなかったことを神に感謝し、今はみんなで助け合いながら、家族力を合わせて新しい家を建て直しているのだと言う。
 普通の人間だったらどうだろう。自分の家を焼かれたら気落ちしてしまって、生活を再建するのはなかなか大変なのではないか。その心の傷のため、焼け跡を訪れるのも、よほど覚悟がいることらしい。
 『寺町三丁目十一番地』の最後で、父親の福っつぁんは、火事で家がすっかり焼けてしまってからこう言っている。「おれには、子どもたちがいる。子どもたちの、未来がある。やるぞ!きれいさっぱりと焼けちまったから、ふり出しからやり直しだ!」
  茂男は、福っつぁんにこの一言を言わせるために、『寺町三丁目十一番地』を書いたのかもしれない。
 幸せとは、すなわち常に希望を持っていられることであるのかもしれない。しかも、その希望を家族や兄弟姉妹と分かち合えることが、生きている中で最も幸せなことかもしれない。今の日本では、大家族や、寺町のような人情のある下町的コミュニティーは、もうあまり見られないだろう。そんな密な家族の交わりを知らない現代の日本の子どもたちや親たちに、『寺町三丁目十一番地』は、何か大切なことを伝えている気がしてならない。
posted by てったくん at 07:53| Comment(151) | TrackBack(0) | 寺町三丁目十一番地