2009年12月14日

フルブライト留学と茂男の著作

茂男の作品を読む観点については、「父親の視点」、「内なる子ども」、「児童図書館員としての見識」、「心に緑の種をうえる」という計4つの観点を前稿に挙げた。

ここにさらにもうひとつの見方を加えるならば、渡辺茂男が1950年代にアメリカ留学した多くのフルブライト留学生の一人であったことがあるかもしれない。フルブライト留学は、戦後の米国の留学制度で、敗戦国である日本やドイツに、親米的な、アメリカの文化や社会に詳しい学者や官僚を育成する機能を担った。茂男は、その典型的な産物と言えるし、子どもの本を通じて、アメリカ人の姿を日本に伝えるパイプ役となった。このことは茂男の著作を理解する上での重要な観点ではないかもしれない。ただ、茂男がアメリカの本をたくさん紹介した理由は、純粋に彼の文学的志向の問題だけでなく、実は大きな歴史の一こまであり、必然だったと捉えることもできる。茂男が自分の意志でアメリカに渡ったことは間違いないが、日本が敗戦し、そのお陰で実施されたアメリカ留学制度がなかったら、茂男がアメリアの子どもの本や民話に精通することもなかっただろう。 

日本へアメリカの古典の子どもの本がたくさん輸入されたのは茂男が留学した1950年代中期以降のことだろう。茂男世代の作家や翻訳家たち、その後輩らは大量の翻訳を行った。茂男の先輩である石井桃子もアメリカに招聘されて長期滞在しているし、松岡享子、まさきるりこら、著名な子どもの本の翻訳家たちにも茂男と似た留学経験を持つ人たちがいる。日本でアメリカの子どもの本がたくさん読まれるようになったのは、フルブライト奨学金をはじめとする留学制度のおかげだけではないだろうが、その功績は無視できない。

茂男は、アメリカの文化と、それを伝えるアメリカ人というものに最初は静岡にあった米軍CIE(民間情報教育局)図書館で出会った。この時期に、各地のCIEでアメリカの文化に出会った作家や芸術家はたくさんいるだろう。茂男はCIE図書館で働いたことがきっかけで、慶応義塾で図書館学を専攻することになり、そこからアメリカに留学した。茂男は、留学中著名な図書館員、批評家たち、作家や編集者からも学んだ。その結果、茂男は、アメリカの図書館で読まれていた1920年代以降一連の「黄金時代の子どもの本」をそっくり日本に持ってこようとしたようなところがある。
 
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そういう茂男は、Dr.スースに見られるようなアメリカ的ユーモアをこよなく愛し、マックロスキー作品の中の、おおらかであるが絆の固いプロテスタント的家族愛に憧れ、西部開拓的フロンティア物語(『エルマーのぼうけん』、『ウイスコンシン物語』『オズの魔法使い』など)に心を揺さぶられた。インディアンや黒人の間に伝わる民話や伝承もむさぼり読んで、紹介した。
 
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子どもの本の分野に限らず、茂男の同世代のフルブライト留学生が日本にもたらしたアメリカの文化、それに関する情報は膨大なものになるだろう。そういう意味では、茂男たちアメリカ留学組の子どもの本作家や翻訳家も、一種の開拓者であったに違いない。
posted by てったくん at 09:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作について
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